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1969年 (昭和44年)
9月 東京都江戸川区西一之江に創業

創業者 中村 弘
昭和14年4月28日 東京都江戸川区生まれ。明治大学卒業。

 創業者は、現中村社長の父・中村 弘氏(2011年9月死去、享年72歳)で、東京の江戸川区平井の生まれ。乾物屋をルーツとするスーパーマーケット「中村屋」を営む両親のもと6人兄妹の下から2番目として育ち、ただひとり大学に通った。

「鉄」を生涯のなりわいに選ぶ

 そもそも家業を継ぐ立場ではなかったが、それ以上に「単価が大きくてダイナミックな商売がしたい」「自分で自分の時間をコントロールできるような業種に就きたい」との想いを募らせていた。スーパーで扱う商品は、ひとつひとつの単価が小さいし、土曜も日曜もない。ましてや、まとまった時間を自分でやりくりすることも難しい。
 この想いを固めたのが、サラリーマン時代の最後にシベリア鉄道でヨーロッパ大陸を横断し、ロシアや欧州各国を周遊したとき。線路に使われている膨大な「鉄」のボリュームを想像し「鉄は国と国とをつなぎ、その物流や経済を支えている」ことに強い感銘を受け、自らの生涯の仕事として「鉄」を選んだ。
 国内でも鉄は「産業のコメ」と称される重要な基礎素材の代表格であり、高度経済成長期の重厚長大産業の発展を支え、牽引した花形産業のひとつだった。血気盛んな若き中村青年の中で「俺には『鉄』だな」との確信が、必然のように芽生えた。
 そして、勤め人ではなく「自分で鉄屋稼業を興す」との意志を強く持ち、その前提で学生時代の伝(つて)を頼って鉄屋修業に励む。それが、同じ江戸川地区で先行する厚板溶断工場だった。そこで加工技術を学び、2年ほどの修業期間を経て念願の自城を江戸川区西一之江の地に築く。1969年9月の話であり、ここから起算して今年が創立50年に当たる。(日刊鉄鋼新聞 2019年12月6日 記事より)

向かって左側に見える外階段は創業当時は無く、工場1階の奥に事務所と手洗いがあった。周囲は畑。住宅地ではなかった。

工場看板

工場外観

創業メンバーは中村 弘、修行時代の会社の職人だった池沢 茂、女性社員の鈴木 シズ子。3人とも東京都江戸川区の逆井(さかさい)(今の平井春日町)のアパートから会社に通っていた。
後に入社する津島の大学仲間のラグビー部のヒロセが同じアパートに住んでおり、アルバイト社員として創業から1年間勤務した。

 「極厚板」に眼をつける

 創立当初は現場作業員1人、事務員1人の陣容でスタートし、すぐに1人増員。4人体制で厚板溶断業としてのあゆみを始める。販売よりも「加工」を重視し「うちにしか出来ない切断技術の確立と切板製品の提供」に力を注いだ。
 もともと先代と知己だった津島久専務は「こちらから『買って下さい』と頭を下げるのではなく、お客さまから『売ってくれ』と言われる商品をつくるんだ」とよく言われたらしい。こうした信念を商売と経営の根底に置いて「技術」と「対応力」を固め、取扱商品(在庫)も「他社があまり手を出さない極厚板」に眼をつけ、取り揃えた。(日刊鉄鋼新聞 2019年12月6日 記事より)

高度成長期の終盤。生前の弘曰く「最初のうちは『思い切って融資を受けて工場を作ってしまったが、この先大丈夫だろうか』と不安になることもあった。当時アパートから徒歩5分くらいの近所にあった一杯飯屋『アカシヤ』が思い出の店。よくメンバーで一緒に食事した。」
女性社員の鈴木が出産のために退職し、経理を引き継ぐために鈴木の知り合いの名雪が入社。鈴木は仕事復帰後は残材商の会社に一度入り、その後中村機材に戻ってきた。

直線切りはポータブル切断機で、丸切りはポータブル切断機か丸切り機で溶断していた。形状切断は薄板製の型の周囲を磁石のローラーがなぞってトレースする型切り機で溶断していた。型切り機の型の材料は、シャーリング業者でスクラップになった薄板を買って、ノコで工場右奥のスペースで切っていた。最初は社長がローラー径とカーフを計算して自分で切っていた。精度はかなりラフだった。

1977年 (昭和52年)
浦安鉄鋼団地に進出

浦安鉄鋼団地に浦安工場を購入。当初は基本的には倉庫として使用していたが、山岡と中西がポーター2台で溶断作業にも対応していた。

 草創期の大きな転機は、1977(昭52)年の浦安鉄鋼団地進出。現在の浦安工場(千葉県浦安市鉄鋼通り1-2-10、654平方メートル)を確保し、工場2拠点体制とした。(日刊鉄鋼新聞 2019年12月6日 記事より)

2019年に撮影。右の棟が増築部分

順調に仕事が増えて社員数も増えた。中西(川鉄鋼材=JFE鋼材から浦安工場の前身の会社に在籍、そのあと中村機材に入社)、山崎、息才(自衛隊出身)、林、神田、山岡などがこの世代。
当時、本社の現場は池沢、神田、林がポータブル溶断機を担当し、息才が材料出しを担当。このときすでに板厚100~150mmくらいまで溶断していた。

1980年 (昭和55年)
板厚200mm以上を扱い始める

求められる板厚が厚くなっていき、板厚200mmまで切るようになった。いわゆる純正の高炉品材料は芝浦鋼材から室蘭の日本製鋼所のものを買っていた。極厚鋼板は板厚500mmまで製造されていたが、そのくらいの板厚になると当時の製鋼技術では内質はどうしてもスカスカで、指が入るような大きな内部空間があるような材料だった。あるときから日本鋼管製の材料に切り替えた。日本鋼管では当時、板厚360mmくらいまで製造していた。

1981年 (昭和56年)
津島久 入社

のちの専務取締役となる津島が34歳で入社した。当初は本社勤務。弘のもとで仕事を学びつつ、型切り用の型をノコで作る作業は、途中で社長から専務にバトンタッチ。

1987年 (昭和62年)
浦安工場に型紙トレーサーを導入

浦安工場に型紙トレーサーを導入した。中西が担当。導入から2~3年は手作業でトレース用の型紙を作図して使っていた。複雑な形状の型紙は、CADとプロッタを持っていた近隣の同業者に依頼して作ってもらっていた。当時の浦安工場は図のようなレイアウトだった。現在の事務所のところは芝生の庭になっていて、弘が趣味の植木を育てていた。のちのミニトレーサーのところは、北側が風呂棟でその南が事務所棟になっていた。

1989年 (平成元年)
本社工場に極厚仕様の型紙トレーサーを導入

本社工場に極厚仕様の型紙トレーサーを導入した。設置スペース確保のため、事務所と休憩スペースを工場2階部分に増設。天井クレーンがその上に格納されるオリジナル設計にし、工場奥までクレーンが届くようにしてデッドスペースをできるだけ無くした。

正面の壁面に張り出しているのが事務所

1991年 (平成3年)
NC切断装置導入

大新技研株式会社から溶断業向けのCADシステムであるANSが1987年の6月に発売された。これからの時代はNC切断だと判断し、当時同業者の中でも早い1991年にANSを導入し、浦安工場と本社工場のトレーサーにNC制御装置を搭載した。

3月 バブル崩壊

いわゆる第1次平成不況、複合不況とも呼ばれるバブル崩壊の影響を鉄鋼業界も強く受けた。1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期となった。

1992年 (平成4年)
津島久 専務取締役 就任

NC切断の体制構築の担当者として津島が浦安工場へ異動。大新技研と連携し、ANSの機能改善にも協力した。浦安工場の管理も任されることとなる。

この頃、浦安鉄鋼団地には多くの鉄屋が続々と店を構え出し、津島専務が仲間業者を中心に取引先の開拓に奔走する。初期には先行する競合先にことごとく先手を打たれ、なかなか新規受注に結びつかない苦い思いもしたが、地道な草の根活動によって小さなオーダーを積み重ね、それを丁寧に仕上げて信頼につなげていった。
 同じ厚板溶断仲間から「ベースサイズはうちで切るから、中村さんには厚いサイズを頼むよ」という注文が徐々に増えていく。その先の機械設備業や製罐業、重電プラントなど広く一般産機関係のエンドユーザーから仲間が受けた切板注文のうち「極厚」サイズを委託されて中村機材が担当するケースは、今の同社の業務形態の礎となっている。「お客様から選ばれ『独自の技術と対応力で応える』ことで信用(次の注文)につなげる」という営業スタイルを、この時期に固めた。(日刊鉄鋼新聞 2019年12月6日 記事より)

1993年 (平成5年)
浦安工場に極厚仕様のNCトレーサーを追加導入

浦安工場にも極厚仕様のNCトレーサーを新設し、既存のNCトレーサーも移動させて、工場東側に共通のレールに並べて配置した。
既存トレーサーは引き続き中西が担当し、新規導入の極厚仕様NCトレーサーを担当するために林が浦安工場に異動。当初はポストミックスを浦安に入れた。しかし極厚仕様のトレーサーだと浦安で主力にしていたベース厚の切断に必要なピアシング作業がうまくいかず、標準仕様に戻した。ポストミックスは本社に移設し、浦安工場では鍛造品など300mm厚以上のものの切断も標準仕様のトレーサーで8番火口で切断していた。

1995年 (平成7年)
浦安工場を増築

浦安工場の工場棟と事務所棟を増築した。ミニトレーサーを1台増設した。

1996年 (平成8年)
溶断名人 藤井が入社

中村 弘の修行先であった同業他社に在籍していた溶断名人で元機械屋の藤井が定年退職ということで中村機材に来てもらった。他社からも溶断技術を高く評価されていた中村機材の溶断技術者で創業メンバーの池沢 茂の師匠でもあった。藤井は他の人ができないような難しい切断作業も、ノウハウと工夫で切っていた。ボータブル切断機での切断やNCデータなど、多岐にわたる溶断技術を藤井とともに社内で研究し、ノウハウを蓄積していった。

2004年 (平成16年)
2月 中村機材 WEBサイト開設

当時、溶断業の会社としてはまだめずらしかった自社ホームページを開設。当時システムエンジニアとして他社で働いていた弘の長男 武史が弘の依頼を受けて製作した。

2005年 (平成17年)
3月 創業者の長男 中村 武史 入社

創業者の長男 中村 武史が26歳で入社。このとき総勢18名。平均年齢53才。

4月 中村機材 ロゴマーク作成

中村機材のロゴマークを作成。会社名からNとKを使って、「極厚精密切断」、「立体切断」などのイメージでデザインされた。

中村機材 WEBサイト 第1回 リニューアル

極厚溶断品のイメージが顧客によくわかるように作業の様子と切断事例を多く掲載してWEBサイトをリニューアルした。紙媒体の会社案内も刷新した。

5月 本社が江戸川区から浦安鉄鋼団地へ移転

 その後、浦安工場を拡張するが、一方で一之江の本社工場の手狭さ問題が浮き彫りとなる。江戸川エリアの宅地化進行によって操業環境は制限され、しかも目の前の大通りは都バスの運行ルートとなっていたことから極厚板のような重量構造物の運搬が困難となり、この地での事業拡張余地は絶望となっていた。
 いろいろと次の展開を模索するなかで2005(平成17)年に、縁あって同じ浦安第1鉄鋼団地内に土地を確保。ここを新たな「本社・工場」(浦安市鉄鋼通り1-4-9)とし、一之江から完全移転した。
 一之江の旧本社工場(251平方メートル)は、大板在庫が4ヤマで構内が目いっぱいだったし事務所も工場の2階だったが、それに比べて新本社工場(1355平方メートル)は工場も事務所も広くなり、作業安全性も業務効率性も格段に向上した。何より2つの工場同士が至近となり、両拠点間の行き来も時間短縮でき、楽になったし時間ロスも大幅に軽減できた。
 現在、浦安工場は板厚100㍉未満の溶断を対象とし、本社工場ではそれ以上(最大450㍉厚)をこなす。この浦安への拡張移転が、中村機材の第2の成長・発展を支えている。なお、元の本社工場は売却し、今は住宅地となっている。(日刊鉄鋼新聞 2019年12月6日 記事より)

新しい本社工場では極厚仕様のNCトレーサー1台と極厚仕様の大型NC切断機1台を新設。片門型クレーン2台も導入し、天井クレーンの吊り上げキャパシティも増えたことで仕事の幅が広がり、作業効率も大幅に向上した。

6月 本社工場にCADシステム導入

当時CADでの部品作成と型紙は鈴木も携わっていたが、切断経路の作成ができたのは藤井引退後は津島のみだったため、中村 武史も経路作成を身に着け、本社でもCADを稼働させられる体制を確立。

2006年 (平成18年)
販売管理システム更新

会社内の販売管理システムをCADと連携できる形式に全面更新。

12月 小野寺純 入社

のちの執行役員工場長となる小野寺純が入社。このとき総勢23名。平均年齢51才。

2007年 (平成19年)
12月 溶断技術のレベルアップの取り組み開始

小野寺を中心に、より効率よく高品質な製品が切れるよう切断吹管や切断火口の見直しを進めた。新しいスタッフの育成方法の構築も、少しずつ取り組み始める。

2008年 (平成20年)
1月 中村 武史 常務取締役 就任

入社以来、鋼材の売買業務、CADオペレーター、クレーンオペレーターや、社内システムの構築などの業務を経験。29才のときに常務取締役に就任。

9月 理化学研究所の仕事を手掛ける

理化学研究所で以前試作されたコイルの中央部の約400mm厚の純鉄を粒子加速器の部材として再利用するため、ステンレス部分や穴を避けて精密溶断するという難易度の高い仕事を引き受けた。
切り出された部材はGARIS2という新しい加速器に使用され、日本の研究チームが113番目の元素を発見するのに役立てていただいた。

理化学研究所Webコンテンツ「匠技で作りあげられた装置群」

9月 リーマン・ショック

2008年9月、世界規模の金融危機が発生。鉄鋼業界も大きく影響を受け、景気が激しく低迷した。

2009年 (平成21年)
8月 中村機材 WEBサイト 第2回 リニューアル

2011年 (平成23年)
3月 東日本大震災 発生

3月11日(金曜日)14時46分18秒、東日本大震災が発生。2度に分けて震度5の大きな揺れが襲った。1度めの揺れのときに工場内と事務所内から外へスムーズに外に全員避難。外で2度めの大きな揺れをやり過ごしたが、液状化現象が発生して目の前で道路がひび割れて泥があふれ出し、手前の建物と奥の建物がまるで海の波のように違う揺れ方をしていた。首都圏の中では浦安鉄鋼団地はもっとも被害が大きいエリアのひとつとなった。

東日本大震災 -浦安市の記録


その日は各自緊急帰宅したが、当然通勤網も乱れており、帰宅困難者が他の社員の家で過ごさせてもらったケースもあった。

翌日から手分けして稼働可能設備での操業と、設備の修復活動を開始。

操業チームは本社工場に集約して、動かせる材料を本社に動かし、ポータブル溶断機の作業場所を増設して稼働させた。操業が止まってしまった仲間業者からの溶断依頼や、福島第一原発の対応のための緊急の仕事などをなんとかこなした。

修復チームは沈下した工場ヤードや液状化した敷地内など、作業のための重機を借りて自分たちで直せるものは直したり、業者と連携してクレーンや酸素設備などをできるだけ短期間で復旧できるよう努力した。

水道から水も出ない、トイレも使えない、液状化現象の泥が乾燥して粉塵が舞いやすいという劣悪な環境の中、各社大変苦労した時期だった。仮設トイレを問い合わせてなんとか群馬県から取り寄せた。水道関係は4月上旬にある程度復旧。

ガソリンの供給が不足し、入手が困難となり、日々大勢の人たちががガソリンスタンドに列を作った。トラックの運行と社員の通勤の足に大きく影響。会社の車と社員の車の給油のために会社でアルバイトを雇ってガソリンスタンドに並んで入手してもらった。3月21日頃に解消。

浦安鉄鋼団地も数日間計画停電エリアとなり、操業と復旧作業可能な時間が大きく制限された。3月26日に浦安市が災害救助法の適用を受け東京電力が浦安市を計画停電対象から除外してようやく解消。

【本社工場の主な被害】
・事務所が沈下し約35cm傾く
・酸素、プロパン設備の沈下
・工場内床に一部ひび発生
・正面道路の電柱の沈下
・敷地内駐車スペースなどの沈下と液状化現象

【浦安工場の主な被害】
・工場の柱と天井クレーンのランウェイの沈下
・溶断機の基礎の沈下
・材料ヤードの沈下と液状化現象

7月 中村 武史 代表取締役 就任

2代目 代表取締役 中村 武史。昭和53年5月25日 東京都江戸川区生まれ。明治大学商学部産業経営学科卒業。フジサンケイグループのシステムエンジニアから転身して2005年に入社。各種実務を経験後、常務取締役として管理業務を行い、33歳のときに社長就任。

事業承継時点で総勢23名。平均年齢48才。

2011年9月22日 鉄鋼新聞記事より

7月 中村 弘 取締役会長 就任

9月 中村 弘 逝去

2010年10月末に急性骨髄性白血病と診断、2011年9月27日午前3時7分、多臓器不全のために、入院先の地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センターにて永眠。享年72歳。

故 中村 弘氏(中村機材会長)を悼む

 一代で関東でも有数の厚板・極厚板溶断業を創り育てた。青年時代にシベリア鉄道で欧州各国を周遊した時の体験と感動が忘れられず「夢よ、もう一度」と心に期し「お勤め人では時間が自由にならんだろうから…と起業の道を選んだ。
 事業に捧げた40有余年にわたる半生は、その滑らかで精密な切れ味のガス溶断技術を確立し、多くの取引先・仲間に評判だったことが何よりの証だ。
 とはいえ、決して偉ぶらず出しゃばらず。クラシックなヴィンテージカーを乗りこなす粋なダンディズムをもつ一方で「生涯に一度でいいから名門・鷹之台カンツリー倶楽部でプレーしたい」とシャイな一面も。09年春の東鉄連ゴルフ大会(本誌主催)に出場する際「知り合いが少ないから」と、出場者の中では数少ない顔見知りだった浦安鉄鋼団地協同組合(当時)の武藤政史さんと組んで楽しそうにラウンドした姿が目に浮かぶ。
 今年6度目の干支を迎え、7月に長男・武史氏(33)に社長のバトンを託し、ようやくこれから自分の時間を楽しむ矢先の悲報だった。今月25日には武史社長の披露宴が行われ、病床からその晴れがましい光景を思い浮かべたことだろう。
 72歳はまだ早すぎるが、眼鏡越しの優しい目つきで会社と業界の行く末を天上から見守ってくれるはずだ。合掌。(太田)(日刊鉄鋼新聞 2011年9月28日 記事より)

2012年 (平成24年)
2月 大震災からの復旧作業完了

現在の中村機材流の採用方式をスタート

1回の採用面接のみで採否を判断していたそれまでの採用方式を見直し、選考の過程にトライアルを実施するなど労使双方にミスマッチができるだけ発生しないよう工夫した中村機材流の採用方式をスタート。

2013年 (平成25年)
11月 小野寺純 本社工場長 就任

理論と設備改良で「精密溶断」

 極厚板溶断業の中村機材にとって最大の武器であり〝売り〟は、切板製品の品質精度の高さ。切板断面の滑らかさ、美麗さ、あるいは角の鋭さや小穴の真円度は、素人の眼でみても分かる。
 極厚の溶断切板は、次工程の機械加工で削り作業を行うので「削り代(しろ)」を残すのが一般的だが、たまに「黒皮仕様」と言って削らずに溶断した断面のままで使うケースもある。削らずにショットしたり塗装したりするから「滑らかな断面で綺麗に切る」ことが要求される。中村機材は、この「黒皮仕様」の極厚切板で定評がある。
 機械工学系に精通した工場長の小野寺純執行役員が、理論に基づいて溶断設備をカスタマイズするとともに、ガスと酸素の流量や燃焼温度と時間、板厚に応じた火力調整やそれに適した切断スピードなどひとつひとつを計算し、切板形状ごとの火の入れ方まで最適値を生み出している。
 機械設備と人の技術・技能を「高いレベルで平準化」し、特定の誰かしかできない「暗黙知」ではなく、理屈を知ってトレーニングすれば誰もが同じ水準になれる「形式知」化したことが、今の中村機材の「現場力」を支えており、滑らかで美麗な断面の切板製品を創り出す独自技術の基礎ともなっている。
 「削り代(しろ)」を残す場合も、こうした理論や改良設備、人の技術力がミックスされて「最小の削り代」を自負する。削り代が小さければ小さいほど次工程の機械加工作業が楽になり、時間も掛からずその分コストも下がる。顧客に重宝され「次も中村機材で」となるようだ。(日刊鉄鋼新聞 2019年12月6日 記事より)

2014年 (平成26年)
8月 中村機材 WEBサイト 第3回 リニューアル

中村機材 ユニフォームTシャツ、ポロシャツ 導入

社内の一体感を強める目的で、作業用のTシャツとポロシャツを製作。
クラウドソーシングの仕組みを利用してコンペ形式で広くデザインを募り、集まった13案の中から社内での投票によって選ばれたデザインを採用した。

9月 超々ロングボディ 4トントラック 導入

2拠点間の材料の転送や母材のスポット購入などに利用できるよう、20尺の長さの材料が積めるボディの4トントラックを導入。

2015年 (平成27年)
3月 ものづくり補助金採択。浦安工場に試作用のNC溶断機を新設。

2014年二次公募 中小企業・小規模事業者ものづくり・商業・サービス革新事業の採択を受け、長尺細物の厚板切断が可能な溶断機を浦安工場に新設。

安全操業への取り組みを本格化

安全装備の装着を徹底。全員参加の安全委員会を結成し、週一回の会議と毎日の朝礼での安全活動を持ち回り制で継続実施。

6月 機械要素技術展 初出展

東京ビッグサイトで開催された機械要素技術展に参加。極厚鋼板の精密溶断や立体切断など、初めて目にする来場者も多く業界内外で注目していただいた。

12月 浦安工場のミニトレーサー更新

自社仕様に大幅カスタマイズして、浦安工場のミニトレーサーを更新

2016年 (平成28年)
5月 経営理念の再構築

「経営の目的は、経営理念の実現。経営理念の実現とは、みんなで職場で実践すること」と定義し、中村機材の経営理念を再構築。経営理念浸透委員会の活動も開始。

経営理念
1. 私たちは、プロの技術集団として高品質な製品を提供し続け、技術と対応力でお客様に選ばれます。
2. 私たちは、親切心を持ってお客様と協力企業に頼られるよう努力し、より良い関係を築いていきます。
3. 私たちは、一緒に働く仲間を大切にして、連帯感を持ち、ともに成長していきます。
4. 私たちは、全社員の物心両面の幸福を追求します。
5. 私たちは、極厚溶断技術で業界No.1を目指し、その技術で社会に貢献します。

行動指針
1. 向上心と探究心を持ち、工夫します。
2. 一緒に働く仲間に関心を持ち、思いやりと感謝の心で接します。
3. お客様と協力企業に対して、親切心と感謝の心で行動します。
4. 社員と家族の健康と安全を大切にします。
5. 被害者意識でなく、当事者意識を選び続けます。

5月 S25C厚板 取り扱いスタート

関東エリアで初めてS25Cの在庫販売を始める。

6月 本社工場に極厚仕様のミニトレーサーを新設

標準仕様のミニトレーサーの中古品を入手し、350mm厚まで精密切断可能な極厚仕様の溶断機として自社で改造。

2018年 (平成30年)
5月 小野寺純 執行役員 就任

経営の透明性、効率化、組織力の発揮、働きやすい会社作りを目的としてピラミッド型の組織の構築へ向け、会社の内部の数字を経営者と共有できる幹部として、仕組みづくりに取り組み始める。

6月 浦安工場にミニトレーサーを増設

一回り大きいミニトレーサー(自社カスタマイズ仕様)を新設。

2019年 (平成31年)
9月 創業50周年

9月に創業50周年を迎え、2019年11月30日に社内で記念行事を行なった。 社員とその家族、約60名が参加。工場見学会を行なったあと、新浦安の東京ベイ東急ホテルで記念祝賀パーティを開催した。この時点で総勢23名。平均年齢42才。